優秀賞
第3回 看護・介護エピソードコンテスト『熊本地震が残したもの』 谷冨 明子さん

私が福祉の仕事をしたいと思うようになったのは、高校1年生の時だった。この年に阪神大震災があり、1週間後に修学旅行。飛行機から神戸付近の一面のブルーシートの光景が見えた時、“人の役に立つことをしたい”と思ったのを昨日のことのように覚えている。
あれから20年以上がたち、現在私は介護支援専門員として居宅介護支援事業所で働いている。大学卒業後、熱い思いで福祉の仕事に就いたものの、自分の力ではどうしようもない状況に直面したり、本人や家族の思いに板挟みになり、つらい思いをしたりということが積み重なり、心身ともに疲れ、いつしか福祉の仕事を辞めたいと思うようになっていた。
そんな矢先に熊本地震が発生した。見慣れた風景は一変。水や食べ物がなくなり、渋滞の中福岡県まで買い物に行く。普段は通勤時間が50分程度だったが、地震後しばらくは2時間弱かかるようになった。支援物資の分配等もあり、業務量も増大した。
幸い、私の職場のある町は大きな被害はなく、2ケ月後には落ち着きを取り戻しつつあった。その頃から、被害の大きかった町の避難所へボランティアに行くことになった。そこで、Oさんとの出会いがあった。
Oさんは、90歳代の女性。長男家族と同居し、庭の草取り等をして生活していたが、地震で自宅は全壊。一時は家族一緒に避難していたが、仕事の関係で長男家族は避難所を出、Oさんは一人で避難所生活をしていた。足腰はしっかりしており、散歩を日課としていた。県外から来たボランティアに熊本弁を教えたりと、避難所では有名なOさんだった。そんなOさんと私はすぐ打ち解け、一緒に散歩しながらいろんな話をした。
「地震があった時は、“ドーン”て大きな音がしたたい。爆弾が落ちたかと思ったたい」
「気がついた時は、目の前に天井があったたい。誰かに助けてもらったたい」
「家のもんと一緒におりたかばってん、こればかりはしょうがなかたい」
「仲の良かった人が隣におらしたばってん、家のつぶれて死なしたたい。寂しくなったたい。」
普段は笑顔でいるOさんだが、私と話をする時はつらそうな顔を見せたり、涙を流すこともあった。私は何と声をかけて良いか分からず、傾聴するだけで精一杯だった。
避難所生活が長くなると、Oさんに関して、ちょっとした問題が出てきた。例えば、電気のスイッチが分からず、間違って空調のスイッチを切ったり、食べ物をトイレに置きっ放しにしたり等があり、他の避難されている方に怒鳴られることもあった。Oさんは避難所内にいたくないのか、今まで1日1、2回の散歩だったのが、頻回に散歩に行くようになった。
「私はみんなの邪魔になるごつあるけん、地震があった時に死んどった方が良かったばい」
ある日、散歩の途中でOさんがこんなことを言った。何か言わなければと思ったが、「そんなことはないですよ」と安易に言葉がかけられないような気がして、並んで黙々と歩き続けた。
避難所では、様々な専門職団体がボランティアとして来ており、定期的に話し合いがあっていた。その話し合いで、Oさんのことを検討した。避難所にいる住民の方の協力も得られたおかげで、しばらくするとOさんは元気を取り戻し、否定的なことも言わなくなった。むしろ、今までよりも活動的になり、避難所で顔馴染みになった方と一緒に出かけたり、避難所で漬物をつけたりして過ごしていた。
県外で長男家族と同居することが決まり、8月に入ってすぐOさんが避難所を出ていくことになった。片付けも一段落ついた頃、Oさんは手招きをして私を呼んだ。
「あんたには、たいが世話になったばい。あんたのおかげで、“100まで生きよう”て思うごつなったたい。私も頑張るけん、あんたも頑張んなっせ。あんたは話ば聞くとの上手かもんな。今の仕事ば続けなっせ」
自分で作った白菜の漬物を手渡し、私の腰を叩きながら、Oさんは笑いながら言った。そして、長男家族と一緒に避難所を後にした。
私は、Oさんのくれた白菜の漬物を食べながら、“この漬物はちょっとしょっぱいな”“最後まで私の名前を覚えてくれなかったな”と思い、また福祉の道を志すことを決めた時のこと等を思い出し、“こんな私でも必要としてくれる人がいる。よし頑張ろう。”という気持ちになった。
熊本地震からもうすぐ1年。今も、私は介護支援専門員として働いている。担当している方の自宅を訪問した際に、漬物が出されると、ふとOさんのことを思い出す。あのOさんのことだから、きっと見知らぬ土地でもうまくやっているだろう。もし、Oさんと再会できたら、私は胸をはって言える。
「Oさんに言われたごつ、私は頑張っとるですよ」

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