「ばあちゃん、危ないらしいけん」
母の言葉に、私はふうんと言った。ふうん。なんの感慨もなかった。
田舎から痴呆の祖母を引き取って同居していたのは7カ月。
数年ぶりに会った祖母は縮んでしわしわになり、明らかに別人だった。家が狭い、食事がまずい。何もかもに文句を言って、母と誰かを間違えて、誰かと私を間違えた。膝が悪いくせに勝手に出歩き、私と母は自転車で団地内をぐるぐる探し回った。財布も持ってないくせに金が盗まれたと言って私と母を罵り、家の中を引っくり返した。
突然大声でわめきだし、妹は怖がって泣いた。
父は家に帰るのが極端に遅くなり、帰ってくれば母と言い争いになり、私は高校受験の問題集を解きながらラジカセの音を最大限にした。
全員の心が振り切れる寸前で、祖母は遠い町の老健施設に入所した。小さな紙袋に少しの衣類を詰めて、父の運転する車で出かけて行った。朝食を食べたばかりなのにごはんはまだかと聞き、父は乱暴にアクセルを踏み込んだ。くたびれた白いセダンが団地の角を曲がると、すぐに何も見えなくなった。
祖母がいなくなると、母はパートを始め、父は一層無口になり、妹は毎晩耳栓をして眠り、私はときどきラジカセのボリュームを上げた。
今なら分かる。うちの家族は誰ひとりとして祖母の介護に向き合う覚悟も余裕も、優しさすらも持ち合わせていなかったのだ。
なんとかなる。そして、なんともならなかった。当たり前だ。
誰のせいでもないが、誰ものせいではあった。
私は祖母の記憶をリセットした。私の中にある祖母は小学生の頃、夏休みに遊びに行った田舎の家。朝のラジオ体操の後にチャボ小屋から取ってきた卵で卵かけごはんを作ってくれた、目を細めて穏やかに笑う祖母だけにした。
だから、母から祖母が危ないと言われても、どの祖母だろうかと、しばらく理解できなかった。ふうんとしか言いようがなかった。
長い梅雨が明け、初めてセミの声を聞いたむっと暑い夏の朝。さらにくたびれた白いセダンに家族で乗り込み、2時間かけて祖母のいる施設に行った。ラジオからは流行りのJポップ。父の頭はぱさぱさの白髪に覆われ、母は体重を6キロ増やし、妹は小5になり、私は高校2年になっていた。
中庭に面した2階の病室は明るく清潔で、微かに薬と尿の匂いがした。部屋にはベッドが6台あるのにしんと静まり返り、時折カーテンの仕切りの奥でゴボゴボと痰の絡む音がした。
祖母は入口からすぐのベッドに寝ていた。私たちは半径1mの距離を取って、小さくなった祖母の様子を黙って観察した。うちの家族は相変わらず、誰ひとりとして祖母に向き合う覚悟も余裕も、優しさも、さらに声を掛ける勇気すらも持ち合わせていなかった。
祖母の目は濁ったガラス玉のようで、私は無意識に後ずさった。
「あら~マツヨさん、今日はよかごつ。お孫さんが来てくれたったい」
不意に飛んできた声に驚いた。振り向くと、体格のいい看護師が立っていた。はちきれんばかりの明るい笑顔。
今まで化石みたいだった祖母は彼女の声にピクリと反応し、ゆっくりと体を動かす。瞳にじわじわと感情の色が浮かびあがり、顔面をくしゃりと皺だらけにして笑った。祖母が笑った。そして喋った。驚いた。
「リツコさん」
「はあいリツコですよ。気分はどぎゃんですか?」
リツコさんは祖母の手を握り、そのまま腕をさする。さすりながら、私たちが来ていること、今日の天気、夕食の献立、とりとめなく喋りかける。笑顔で、優しく、ゆっくりと。ただ、それだけ。ただ手を握り、目を合わせ、話をするだけ。それだけなのに、祖母はとても嬉しそうだった。
それは、確かに夏休みに卵かけごはんを一緒に食べた祖母の顔だった。
私たちは黙ったままだった。全員がリツコさんに恥入っていた。家族なのに、話しかけるどころか、名前を呼ぶことすら出来なかったことに。これまで現実から目を背け、逃げっぱなしだったことに。
リツコさんはそんな雰囲気を感じ取ったのか、照れ臭そうに振り返り、「家族と他人は違うですもんね」と言って、「マツヨさん、今日は機嫌よかです」席を外した。
私たちは祖母のベッドを囲み、リツコさんの真似をして代わる代わる手を握り、言葉を交わした。ぎこちないやり取りだったけれども、祖母はにこにこしていた。それだけで良かった。それだけで良かったんだと、今さらながら気が付いた。
私たちは最後まで何もかもが全然足りないままだったけれども、祖母はそれもひっくるめて、ただ穏やかに笑っていた。私たちが誰かも分からなかったかも知れない。でも、目を細めて、幸せそうに笑っていた。
母は言う。あのまま家にいたら祖母は二度と笑うことなく、両親は離婚して、私は高校に落ちてグレて、妹は情緒不安になっていただろうと。そうかも知れない。
ただ、祖母が亡くなって四半世紀。妹は専門学校で学び介護福祉士になった。母は地区役員として団地の高齢者を訪問している。父も元気だ。
私は何にもならなかったが、祖母の笑顔とリツコさんのことだけは今も覚えている。