第11回 看護・介護エピソードコンテスト『土台石は語る』
松田 祥子さん
松田 祥子さん
介護保険制度が我が国で始まったのは、今から四半世紀前。これは、そこからさらに十数年遡り、その準備段階だった頃の話である。
――ある日、市の福祉事務所を訪れた私は、偶然≪家庭奉仕員募集≫の張り紙を見た。応対に出た職員に「これはどんなお仕事ですか」と訊いた。すると、なぜか奥から所長が現れ「高齢者や障害者の家庭を訪問して、家事介護をする仕事です」と妙に愛想よく答えた。「私にもできますでしょうか」
<健康な人なら年齢・学歴不問>の但し書きを見ながらそう尋ねると、所長は打てば響くように「できます、できます」と答えた。当時、事情があり二人の幼児を抱えた私は早急に職探しをする必要に迫られていた。
その場で履歴書を書かされ、非常勤職員として即決採用という運びになった。しかも、子供たちは大勢の待機児童を差し置いて、翌日から保育所で預かってもらえるという好条件で。後日わかったことだが、国と府の指導要請を受けながら、ここ一か月間一人の応募者もなく、所長は焦りに焦っていたらしい。
障害福祉課所属となり、ろくな研修も受けず、次の日から現場に駆り出された。以来定年まで、私はさまざまな対象者と係わった。
結果、人間相手の仕事は、シビアだが遣り甲斐があり、実に面白かったと言える。基本人を援助する行為は、どんな形であれ、深い満足感と自己肯定感をもたらすものだからだ。
――「ほな松田はん、行こか」というのが全盲のY氏の出発の合図だった。行先は近所の市場やスーパーだ。そこで、日常の必需品や食料の買物をする。週二回の訪問日を待ちかね、毎回白杖を握って玄関先でスタンバっていた。外に出るや、空いている方の手でグイと私の肩を鷲掴みにして「あんたは盲導犬の代わりやから、しっかり案内せえよ」と命令する。一事が万事その調子だった。
一度何かの手続きで彼を役所に案内した折、窓口で悶着があった。職員の対応が悪いと怒りだし、白杖でカウンターを殴りつけ、一時庁内は騒然となった。私と係長とで必死に宥め、何とか事なきを得た。以来私は周囲から見当違いの同情を受けるようになった。
「あんなわがままな気難しい人の介護、ようやってくれるな」と、課長も労ってくれた。
が、何のことはない。Y氏と私は意外にも波長が合った。親分肌で誇り高い彼は、自分の理解者だと認識した相手には心を許し、鷹揚な紳士となる。また、物知りな論客でもあり、買物の道すがら世の諸問題に関する自説を滔々と開陳してやまなかった。私は適当に相槌を打ち、時には茶々を入れて聞き流していたのだが、今思えば漫才のボケとツッコミそのものだったなあ、と笑えてくる。
――保育課から訪問要請のあったK子さん母子のケースは、かなり困難だった。軽度の知的障害者K子さんは、五歳の息子の養育がままならず、その子も障害の疑いがあるので母子のサポートを、というものだった。
訪問すると、なるほどクセの強い子育てであった。多動な子をのべつまくなしにガミガミ叱り、接し方がいささか異常だ。当時、私は張り切ってその方面の研修や勉強を重ね、いっぱしの理論家のつもりになっていた。
だが、そんな浅知恵を一瞬で吹き飛ばす凄まじい現実に直面した。K子さんは、私の忠告や慰めには耳を貸さず、息子の保育所で自分は母親仲間からイジメを受けている、と見当違いの訴えをして、泣き喚くばかり。全然話が通じず、子供より厄介だった。さらに、「松田さんに怒られた」と帰宅した夫に訴えたので、彼女の夫が翌朝福祉課の窓口に怒鳴り込む始末だった。
実は、かねてから奇異に感じていたのだが、彼女は会話中しばしば虚脱状態に陥り、頬や唇をピクピク痙攣させることがあった。しかも、その間の記憶は一切ないと言う。上司と相談の上、病院で診察を受けるよう説得した。
結果、私の不安は的中した。医師の診断によると、その症状は精神運動発作(てんかんの一種)であり、定期的な通院と服薬を要するとの事だった。「昔からあんな風やったんでクセやと思い込んどりました」と報告に来た夫は、頭を掻いた。
――行政主導で始まった高齢者と障害児・者の介護事業は、初期段階には難問山積で、さまざまな試行錯誤があった。決まっていたのは訪問回数と滞在時間だけ、サービス内容は対象者と相談の上、あるいはヘルパー個人の裁量で、と至って曖昧であった。
多くの失敗と挫折を繰り返すうち、私は各現場で求められているものが、自然にわかるようになった。理屈ではなく、場数による経験と勘である。それを教えてくれたのは他ならぬ対象者であり、彼らとの心の交流だった。
しかし稀に、滅茶苦茶な要求をする人もいた。毎回、家具を移動させて大掃除をしろとか、単独で遠方の訓練施設に重度障害児をバギーで連れていけ、などであった。断ればただの骨惜しみと取られ、信頼関係が築けない。また、現場を知らない上司達は市民からのクレームを何よりも恐れている。
結局私達が、無理を承知で引き受けるしかなかった。一日の重労働から解放され、足を引きずって戻ると、とっくに閉庁時間の過ぎたオフィスに、係長が一人ポツンと居残って報告を待っていたこともしばしばだった。
時は移り、事業は行政から民間へ委託された。そして今では逆に、ケアプランに記載のないサービスはしてはいけないことになっている。業務の円滑化と効率化のためのケアマネージャーの存在意義も大きい。
思えば、私と前後して採用された全国の家庭奉仕員達が我が国のヘルパーの草分けであり、彼女らの働きが制度の土台石となったのだ。その無名性に、私は秘かな誇りを覚えるのである。




