第11回 看護・介護エピソードコンテスト『生きるとは』
大石 桃子さん
大石 桃子さん
心臓の音。ピコン、ピコンと音が鳴り響く病室。一定のリズムで動く人工呼吸器の音。何度も痰が詰まって、アラームが鳴り、私たちは吸引する。その度に意識のないこの身体が苦しそうにビクビクと震える。
ごめんねと頭の中で謝りながら、私は今日もこの人は生きてて幸せなのかなと思う。
日本は超高齢社会。医療の発展もあり平均寿命は世界一である。
私は看護師。急性期病院の内科で働いている。私が働き始めてから何度聞いただろうか。
「先生、出来ることは全てやってください。」
家族にそう言われると医師はその指示に従う。私はそれを後ろで聞いて、ああ、かわいそうに。とそう思う。
これは誰しも医療者であれば必ず葛藤するであろうことではないだろうか。病気から救いたい。元気になって欲しい。皆そう思ってる。でも治らない病気がある。もう戻らない意識。動かない身体。でも心臓は動いてる。胃に穴をあけて栄養剤を入れる。何度も繰り返す肺炎。徐々にとれなくなる血管。何度も何度も針を刺す。
本人は望んでる?
皆口には出さない。私ももちろん、この場において自分の倫理観はあってはいけないのだ。やれと言われればやる。これが今の医療だ。
そう思うまで数年は要した。看護師になったばかりの頃は患者を救いたいと思っていた。もちろん今もそう思っているのだけれど、高齢者の多い内科では元気に帰る患者を見たのは少ない。死ぬ場所を自ら選べない。家か病院か、はたまた施設か。
生きるとは幸せ?いや、延命とは生き地獄なのか。考えれば考えるほど無意味。
いつの日か、私は考えることをやめた。
そんな私も数年後に結婚した。愛する夫との毎日は私を幸福にさせた。夫と食べるご飯。夫と寝るあたたかい布団。夫とのどうでもいい会話。その全てが私の人生を豊かにさせた。ある日、事故で植物状態となった人のドキュメンタリーをテレビで見た。
「私がもし、植物人間になったら一生懸命生かそうとしないでね。そのままぽっくり逝かせてね。」
この日々が生きる喜びならば、植物となった私に生きる意味なんてない。私は夫にそう言った。
「絶対無理だよ。」
夫はそう返してきた。夫は楽観主義者なので何言ってんだよと笑って流すと思っていた。
「君の手があたたかいのに諦めるのは無理だ。」
それはそうだよね。私も逆ならそう思う。
「でも、本人は望んでなくて、痛くて苦しいなら楽にしてあげたいと思わない?」
こんな話しなくていいのに、私はつい言ってしまう。
「ごめん。でも、生きてて欲しいと思ってしまうよ。君が死んでしまったら俺も死ぬと思う。」
ずっと考えていた。家族の生かして欲しい願いの理由は何か。それは愛なのかなと今は思える。生きることの意味は人それぞれだけど、私は夫なのだ。自分の命よりも大切な人。生きがい。自分勝手だけど、生きてて欲しい。
これが正解かどうかは正直わからない。
やがて子どもが産まれた。小さくて尊い命。産まれてきてくれてありがとう。この子の人生が豊かであるように、私はまた自分の生きる意味を見つけてしまった。
増えていく患者。変化する治療。変わらない病院。
それでも私の居場所だ。私はまたここに戻ってきた。
「先輩、この家族おかしいですよね。こんな状態でまだ治療してくださいって。」
あぁ、あなたも葛藤してるのね。後輩が悔しくて泣いている。
生きる意味、生かす意味。それは本人と家族にしかわからない。その人の人生を私は知らないから、おかしいとは言えない。
私は愛を知ってしまったから、自分は簡単には死ねないし、家族を死なせたくない。そこにはいろいろな理由があると思う。
命に携わる仕事を続けていけば疑問を持ち続ける。その疑問に正解はないけれど、自分の中で納得する答えを見つければいい。
私は看護師。治療を与える権利も選択する権利もない。でも、人のために出来ることは全力でする。
「頑張ろうね。」
私はそう言って笑った。




