第12回 看護・介護エピソードコンテスト『教育と介護が溶け合う場所で』
高橋 香織さん
高橋 香織さん
始まりは、拭いきれない不安からだった。特別支援学級の担任として2年目を迎えた春、勤務校にやってきたのは、重度の重複障がいを抱え、車椅子で生活するAさんだった。
入学前、私は彼が通っていた特別支援学校へ引き継ぎに足を運んだ。そこで目にした光景は、想像を絶するものだった。介助に入ろうとした担任のメガネを一瞬の隙に吹き飛ばした。帰宅時に壁を叩くのを防ぐため、その両手には厚いグローブがはめられていた。その力強さと、次に何が起こるか予測できない衝動を目の当たりにし、私は言葉を失った。
当時、私の中には知識や経験の乏しさからくる恐怖があった。学校、病院、介護施設――どこも命を預かる場であることに変わりはない。しかし、学校は「教え育む場」であるはずだ。彼にどう教えればよいのか。何を教えろというのか。怒りにも似た感情が湧き出たのも事実だ。
設備も十分とは言えない中学校で、彼を受け入れる日々が始まった。食事、トイレ、着替え―生活のすべてに介助が必要で、常に2名の教職員が付き添った。私の心には、澱のようにある問いが溜まっていった。「これは果たして教育なのだろうか。介護ではないのか」
教師として採用されたはずの自分が、食事の補助やリハビリに追われる中で、職業的アイデンティティが根底から揺らいでいた。彼は相変わらず周囲を叩き、つねり、髪を引っ張った。たとえそれが母親であっても。初めの1週間で、関わった全員が顔や腕、手の甲に傷を負った。
しかし、彼と向き合ううちに、私はあることに気付いた。言葉が不自由な彼のその行為は、相手を傷つけようとする悪意のある攻撃ではなかった。片目の僅かな光を頼りに、精一杯この世界との繋がりを模索し、目の前にいる他者と関わろうとする「呼びかけ」だった。伝わらないもどかしさに震えていたのは、私ではなく、彼の方だった。
私は彼の手をとり、自分の肩に添えた。痛みを与えるのではなく、温もりを通して意思を伝える方法があることを教えたかった。「痛いのは悲しい。こうやって、優しくトントンってするんだよ」毎日、何百回と繰り返した。すると次第に、彼は暴力ではなく、優しくトントンと触れることで、周囲と関わりを持つ手立てを学んでいった。
彼の目覚ましい変化に驚いていたある日、一人の先生が呟いた。「『だんだん』って、私たちを呼んでいるんじゃない?」私たちがそばにいると、「だんだん!だんだーん!」と叫ぶ。母親に聞いてみると、彼は幼少期を四国の地で過ごしており、そこでは「ありがとう」を意味する方言だと知った。彼は、彼なりの親しみと感謝を込めて、私たちを「だんだん(先生)」と呼んでくれていた。
それからも、彼は少しずつ変わっていった。感情が芽生え、意思が形になった。何かをお願いしたいとき、手を合わせて「はい、どうぞ」と懇願する。きっと、大人が「はい、どうぞ」と声をかける言葉を聞いていたからだろう。彼の中では「はい、どうぞ」が「お願いします」という言葉として定着していた。それは彼なりの、精一杯の丁寧な表現だった。気持ちが昂って手を出してしまったことを指導されれば、口をへの字に結んで涙を流す。気が乗らなければ、「いらね」「やんね」とはっきり拒絶する。そこには、一人の少年としての確固たる「個」が息づいていた。
作業学習の時間、私たちは言葉を超えたリズムで繋がった。私が「トントン」と言えば、絵の具が染み込んだスポンジを画用紙に打ち付け、「シャーシャー」と言えば、クレヨンを握り締め、力強く紙を走らせる。その色彩の重なり、意図せず生み出された芸術は、彼の生命の躍動を感じさせる作品だった。
それでも、現場は常に「教育」と「介護」の境界線上で揺れ動いていた。着替えの手伝いや食事の介助をするたび、私の心もやはり彷徨っていた。
しかし、今ならわかる。教育と介護は、決して切り離せるものではない。彼の身体を支え、尊厳を保つ「介護」という献身がなければ、彼が学ぶ準備を整えることはできない。同時に、彼の内なる可能性を信じ、世界を広げようとする「教育」の眼差しがなければ、介護はただの空虚な作業に堕してしまう。
「できること」を増やすこと、「役割」や「やりがい」を与えること、そして「生きる意欲」を育むこと―そのすべてが教育であり、そのすべてが介護なのだ。この割り切れない、混ざり合い溶け合う時間に、私は教育の原点を見た。
おもちゃのピアノを四つん這いで運んでくる彼。「一緒に歌おう」と全身で誘ってくれる瞬間。彼とともに歌う「森のくまさん」は、傍から見たら滑稽かもしれない。しかし、そこに宿る感性の共鳴は、私にとっての教育の極致であり、同時に逃れようのない究極の介護でもあった。教育と介護の狭間で揺れ動いた葛藤。生きることに、教育、看護、介護の明確な枠組みなどない。その割り切れない豊かさこそが、私にとって最も尊い学びであったと、深く噛み締めている。




