選考委員特別賞
第12回 看護・介護エピソードコンテスト『一つと無数の、ありがとう』
佐藤 将人さん

我が家の介護は、本当に突然始まった。
母が東北地方の実家にいる祖母(母の実母)を、関東にある我が家に急に連れて帰ってきてしまったのだ。温厚な母が悔し涙を流しながら、怒り狂っていた。

「あり得ない。あり得ない。母さんをあんな風にするなんて、あり得ない」
祖母の様子がおかしいことは、少し前から気づいていたという。仲良し母子の2人は、週に一度は長電話をしていた。ただ、話がかみ合わない。同じ話を繰り返す。そんなことが増えていたという。そしてついに、電話に出なくなった。同居する兄夫婦が電話口に出ると、「ちょっと体調が悪い」とつないでもらえないという。
本当は認知症が進んだのではないのか。母は心配で居ても立っても居られず、父の運転で実家を訪ねたのだ。

そこで見たのは、自らを育ててくれた母親の無残な姿だったという。何日も着替えていないような汚れた衣服。オムツには糞尿がたまり、強烈な異臭がしていたという。完全な介護放棄だった。

母は怒りに我を失い、兄夫婦にこう啖呵を切ったという。
「あんたたちには人の心がないのか。ふざけるんじゃない。母さんは私が面倒を見る」
冷静さを欠いた行動だが、父からしても「あまりにも不衛生で、本当に病気になりかねない」と見えたらしい。だからそのまま車で、連れ帰ったと。

当然、我が家には何もない。知識も準備も用具も、すべてない。祖母はまだ自立歩行ができる状態だったが、入浴や排せつには介助が必要だった。歩ける分、徘徊にも気を配らねばならない。

母は激情に任せ、役所の申請手続きなどを含め、怒涛の勢いで進めていった。我が母ながら、ものすごい馬力だった。実家が急速に「介護モード」へと変わっていった。父と母の寝室には介護ベッドが置かれ、家のあらゆるところに手すりがつけられた。父の寝床は兄が使っていた2階の一室に移った。

どこかおびえていた祖母の表情が徐々に柔らかくなり、会話もかみ合う場面が増えてきた。「人間として尊重される安心感」がこれほどまで認知機能を修復するという事実に、僕は心底驚いていた。

が、半年ほどが経ち、だいぶ祖母も落ち着いてきたころ、母がダウンした。高熱が続き、食事もろくに摂れない。病院ではこう告げられた。「心身の疲労。ガソリンが切れた状態ですね。しばらく安静にしてください」。日々接していたので気づかなかったが、母は祖母を引き取ってから8キロも瘦せていたという。

母は介護サービスの利用を最低限に抑えていた。「自分が面倒を見る」と啖呵を切った手前、人に頼ることを異様に嫌がっていた。食事も介助もリハビリも、本で学び、できるだけ自力で行っていた。

ただそれも、限界だった。何より、母自身の笑顔が減っていたからだ。いつも何かに追われ、疲れている。たぶん、まともに睡眠もとれていない。僕は父とともに懇願した。「このままではばあちゃんと一緒に共倒れになる。もう少し力を抜いて、プロの力を借りながら、母さん自身も無理ない介護をしてほしい」

本当は母も、わかっていたらしい。これをずっとは続けられないと。祖母は要介護3に認定されていた。それでも母が自らに許した“譲歩”は、訪問介護の回数を増やすという一点だけだった。

そんな折、担当になったベテランのヘルパーさんと、母はとても気が合った。それまで祖母を引き取った経緯などを話すことはなかったらしいが、その人には実家で見た惨状やその時のショック、怒りなどを少しずつ明かしていったという。そしてそのヘルパーさんがある時、こんなことを言ってくれたそうだ。

「あなたは本当にお母さん思いの、強い人。そんな辛い目に遭ったお母さんがいま微笑んでいるのは、間違いなくあなたのおかげだと思う。でもわかっていてほしいのは、あなた自身も、家族にとってたった一人の『お母さん』ということ。立場上、私は介護が理由でぎすぎすしている家庭をたくさん見てきた。でもこの家はみんながあなたを支えようとしている。だから、あなた自身も自分を大切にしてほしい。家族のためにも、頼れるものは頼ってほしい」

母はその言葉を聞き、ぼろぼろ泣いてしまったという。自らの母を独りにすまいと猛進するうちに、自分が独りになっていたことに気づき、肩の力がスーッと抜けたそうだ。それからはデイサービスに加え、時折ショートステイも利用するようになった。母は少しずつ、趣味の編み物や読書を再開するようになった。笑顔が増え、どこか悲壮感が漂っていた介護にも、いい意味での余白が混じるようになった。祖母もさらにリラックスしているように見えた。

それから1年半ほどで、祖母は自立歩行が難しくなり、特別養護老人ホームへの入居が決まった。幸い実家から徒歩で通える範囲だったので、母はほぼ毎日会いに行っていた。そんな生活がさらに2年ほど続き、祖母は老衰で亡くなった。入居後は僕を含めたほとんどの家族を認識しなくなっていった祖母だが、最期まで母のことはわかっていた。静かな晩年だった。

介護の現場は、きれいごとでは済まないはずだ。ただ、そこで踏ん張る人たちだからこそ見える視点が、伝えられる思いが、響く言葉が、ある。急転直下で始まった我が家の介護を穏やかなものへと導いてくれたのは、一人のヘルパーさんの言葉だった。その方にとっては、「数あるうちの一つ」に過ぎないのかもしれない。ただ母は、我が家は、あなたに救われた。そんな「一つ一つ」のありがとうが無数にあるのも、介護の現場なのだろうと、思う。