第12回 看護・介護エピソードコンテスト『闘病が辛いだけの時間にならないように』
島田 理絵さん
島田 理絵さん
「ありがとう。」
それは娘が最期まで口にしていた言葉です。
闘病の中で出会った医療者の皆さんへの想いが、
娘の言葉に重なっているように、今も感じています。
六年前、看護師として働いていた私は、患者家族となりました。
娘に脳幹部悪性脳腫瘍が見つかったのです。
確定診断が出る前でしたが、治療の選択肢は陽子線治療か放射線治療と告げられました。
娘にとって最善の可能性を求め、私たちは陽子線治療を受ける道を選びました。
「娘に残された時間をどう生きるべきか」
「まだ幼い娘に、どう治療に向き合わせたらいいのだろう」
母として、そして看護師として悩んでいた私に、
がん専門看護師さんが声をかけてくれました。
「楽しい時間はいくらあってもいい」
「家族の笑顔や、娘さんの叶えたい夢を大切に過ごしたらどうですか?」
そう言って、難病支援団体のパンフレットを手渡してくれました。
パンフレットには、陽子線治療の情報だけでなく、現地での暮らしのヒントもまとめられていました。
小児の陽子線治療を受けられる施設は限られており、
娘と私は見知らぬ土地で暮らすことになります。
まるで娘の命のハンドルを私一人で握っているような思いでした。
また外来で治療を受けるためには、鎮静を使わず、固定用のお面をつけたまま装置の中で動かずにいなければなりませんでした。
もし難しければ入院での治療になります。
しかし入院ベッドは半年待ちでした。
娘には、その時間がありません。
私たちは数回リハーサルに通い、鎮静をかけず起きたままで治療を受けられるかどうかを確認してもらいました。合格をもらえるかどうか。その時間は、娘の命の行方を左右するようで、怖くてたまりませんでした。大きなプレッシャーと不安を抱えた私に、看護師さんは
「見知らぬ土地での闘病が、辛いだけの思い出にならないように、娘さんとママの笑顔を支えたい」
そう言って、たくさんの工夫を考えてくれたのです。
陽子線センターのかわいいキャラクターが描かれた通路を抜けると、飛行船のような大きな陽子線治療装置が現れました。
治療室には、娘の好きなアリエルの音楽が流れていました。
スタッフの方は、ふなっしーの大きなぬいぐるみでモノマネをして娘を迎えてくれました。
治療に使う固定装具には、娘の好きなマイメロディーの絵まで描かれていました。
娘は、ふなっしーのぬいぐるみを抱えながら、大きな飛行船の中へ
入っていきました。泣き言ひとつ言わずに。
治療を始めた初日の夜。
娘は重篤な副作用で、生死の境をさまよいました。
この治療を選んでよかったのだろうか。
地元に残る家族との時間を優先すべきではなかったのか。
それでも立ち止まることはできませんでした。
「娘は必ず奇跡を起こす」と自分に言い聞かせながら、
心に麻酔を打つようにして、一日一日を過ごしていました。
想定外の副作用に見舞われながらも、陽子線チームの皆さんが用意してくれたシール帳は、最後まで埋めることができました。
三か月に及ぶ治療を終えたとき、スタッフの皆さんは、娘の治療中の様子や家族の笑顔の写真を入れた手作りのフォトフレームをプレゼントしてくれました。
キラキラのビーズや手描きのイラストで飾られた、
とても温かいフォトフレームでした。
看護師さんが目を潤ませながら、
「ママ、本当によく頑張りましたね」
肩をさすってくれました。
そのとき初めて、自分の心がどれほど張りつめていたのかに
気づきました。無事に終えられた安堵感。それでも、この先どんな未来が待っているのかという恐怖。今でも、そのときの記憶に触れると胸が締めつけられます。
治療の効果で症状は小康状態となり、私たちは地元へ帰ることができました。
帰宅後は訪問看護に支えられながら、家族の時間を大切に過ごしました。難病支援団体の皆さんの力を借りて、娘の夢を叶える思い出を作ることもできました。
しかし、奇跡が起こることはなく、
私は遺族となりました。
娘だけではなく、あれほど近くで支えてくれていた戦友のような医療者の皆さんも日常から姿を消して行きました。
これから誰を頼ればいいのだろう。
世界から取り残されたような孤独に包まれました。
思い出が、哀しみを消してくれることはありません。
それでも、
娘の笑顔の記憶とともに、共に過ごした時間は、私の中であたたかく残っています。
そして看護師として患者さんやご家族と向き合うとき、
私は今も、あの日の言葉を心に留めています。
「闘病が辛いだけの時間にならないように」
あの日の言葉は、
今も私の看護の中で息づいています。




