大賞
第2回 看護・介護エピソードコンテスト『地域のつながりが生んだ支援』 川手 弓枝さん

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高齢者の方の話を真剣に聞いている間は忘れているのだが、移動する車中では父のことが頭をよぎる。親御さんの元気な姿が見られる息子さんや娘さんはお幸せだな・・・ と羨ましく思った。意識不明の状態から1カ月後、父は意識を取り戻した。6カ月間の入院治療を経ても、言葉が話せない・理解できない全失語、右上下肢に麻痺が残り歩けない身体状態だった。医師からは、一生寝たきりだと告げられた。失語症のため他者との意思疎通が難しいことが、入院中も医療関係者を悩ませた。家族とはアイコンタクトや表情で、なんとなく通じる時があった。そこで入院中は個室で家族が付添うことを許可してもらい、母と私が交代して付き添った。そうした経過の中、家族にわかる範囲で本人の意思を代弁することが常になっていた。

そんな時、入院している急性期病院から回復期リハビリテーションまたは療養型病院への転院か、または退院して在宅へ戻るかの話し合いをしたいと、病棟のソーシャルワーカーから告げられた。今から10 年前の話だが、病棟のソーシャルワーカーと看護師、介護保険のケアマネジャー、本人(父)、家族(母と私)、で話し合いが行われた。看護師は「義幸さん(本人)ひとりでは出来ないことが多いから」と、リハビリを続けられる病院への転院をすすめてくれた。話し合いの前日、アイコンタクトや絵を書いて父と相談した結果、本人は家に帰りたがっていることがわかった。そこで家族は、退院を希望し在宅ではこんな風に生活したいと思っていると話そうとした。すると、「家族のための話し合いじゃないんですよ、ご本人のための話し合いなんです。義幸さんがどうしたいのか、が大事です」とソーシャルワーカーが厳しい口調で家族の言葉を遮った。そして、「義幸さんはどうしたいですか?」とたずねた。「・・・・」父は答えなかった。答えたくても答えられなかったというべきだ。
「義幸さん、どうされました? 何でもいいですよ、お家に帰るのが不安なら、転院してリハビリを続けることもできますよ」と優しくなだめるように、ソーシャルワーカーは問いかけた。父は困った表情を浮かべ、家族を見た。ケアマネジャーが、「義幸さんはご家族との意思疎通がなんとなく出来ているので言葉がわかるように見えてしまいますが、実は私達の言葉はほとんど理解できていないと言語聴覚士の先生がおっしゃっていました」と言った。看護師も「家族との意思疎通は可能とカルテには書いてありますが、私達看護師の言葉に対しては“こう言っているのかな”という推測や勘でうなずいているように思えます」と言った。再度ケアマネジャーが、「ご家族とは病気になる前から気持ちが通じているから、言葉が無くても通じるものがあるのかもしれません。でも病気を機に関わったばかりの私達が義幸さんのお気持ちを知るには、ご家族の協力がないと難しいかなと思います」と、家族が本人の気持ちを代弁することを容認してくれた。
「そうでしたか。私は可能なかぎり、義幸さんの意思を尊重できればと思ったものですから」とソーシャルワーカーは言い、『本人の意思の尊重』という核心を突く言葉を全員に投げかけた。言葉の理解ができず、話すことができない父。でも本当は、言いたいことや伝えたい思いが胸の内にあふれかえっていることだろう。本当はどう思っているのか、どうしたら本人の意思を尊重することになるだろうか・・・ この問いかけは、この後に在宅で支援して下さるケアスタッフの皆さんおよび家族にとっても、最大の課題となった。

話し合いの結果、退院後は住み慣れた自宅へ戻り、介護保険サービスを利用しながら在宅介護をすることに決まった。福祉用具のレンタル・訪問看護・訪問介護・訪問リハビリ・訪問入浴など、様々な介護保険サービスをケアマネジャーさんが手配して下さり、看護・介護・リハビリなどたくさんのケアスタッフに支援していただくことになった。

自宅へ戻れたものの、健康な時とはまるっきり変わってしまったことに一番ショックを受けているのは、父本人であった。言葉が話せない(失語症)だけでなく、高次脳機能障害のため日時がわからない(記憶障害)、服の袖の通し方がわからない(失行)、自宅トイレへの行き方がわからない(地誌的障害)など、次から次へと生活上困難な出来事にぶつかった。何が出来て何が出来ないのか、家族もケアスタッフもすぐにはわからなかった。周りから理解してもらえない悲しみが積もって、父から笑顔が消えた。気持ちが伝わらないことに苛立っている様子がみられ、次第にケアスタッフへ怒りをぶつける場面が増えた。ケアスタッフ達から、「一生懸命やっているが、どう対応していいのかわからず困っている」と家族に告げられた。両者がギスギスとして、父とケアスタッフとの間に明らかな溝が生じていた。父の目つきは険しさを増して表情は暗くなり、家族以外の人を受け入れなくなっていた。その背中は、言いたくても言えないもどかしさと気持ちをわかってもらえない悲しみにあふれていた。

私達家族も、何気ない言葉で傷ついていた。ある日、ケアスタッフの手を振り払った父の手が、ケアスタッフの顔にバチンと当たってしまった。その人はあまりの痛さに顔を押さえ、「娘さん、保健師なんでしょ? お父さんの言っていること、わからないんですか!」と声を荒げた。胸が張り裂けそうだった。まったくその通りだ、何のために勉強してきたのか、何の役にも立ってない。無力な自分が申し訳なかった。

家族介護者として24 時間ずっとそばにいると、父の心の痛みがヒシヒシと伝わってきた。何て言いたいのか父の言葉を一言一句そのまま理解することはできないけれど、悲しいとかつらいとか気持ちは理解できるかもしれない・・・ 父の気持ちをケアスタッフの皆さんにも知ってもらいたい!そう思った時、ふと、以前訪問したAさんの“絆の連絡帳”を思い出した。「これだ!」、家族介護者としての私と保健師としての私がつながり、ひとつになった瞬間だった。

『ソワソワした表情で左手を動かす時は、トイレです』『最近はテレビの裏側が気になって仕方ありません』『物を投げる時は、悲しみでいっぱいの時です』など、家族が気づいたことをノートに書いてケアスタッフに見てもらえる連絡帳を作った。そのノートの最初のページには、 《義幸のことを知ってください》という題名で、元気な頃の写真を貼り、好きなこと、苦手なこと、どんな仕事をしてきて、どんな性格か、など本人の自己紹介ページを設けた。Aさんの『絆の連絡帳』を応用した、『我家流の絆の連絡帳』の誕生だ。

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