選考委員特別賞
第8回 看護・介護エピソードコンテスト『一握りの罪悪感』 奥谷 富美子さん

「おいおい何か言ってから逝ってくれよ」

単行本から目を離さない私の横で、母は静かにその生涯を閉じた。というか、閉じていたようだ。

父と母、病気のデットヒートを繰り返しながら私の介護歴は15年間以上に亘った。

母が最初に脳梗塞で倒れたとの知らせを聞いたのは、故郷青森から1200キロ離れた大阪の地。嫁に行かない私は働くことが自分の全てだった。

幸い、東京にいた妹が駆けつけてくれたおかげで、一年後には旅行に行けるほど元気な母に戻っていた。

仕事に疲れ「そろそろ親が心配で」という美名の元に故郷に帰った33歳。

一人暮らしの気楽さを手放せず、同居はせずにシングル生活を満喫していたが、ほどなくちゃんと親が介護生活になった。

母、二度目の脳梗塞。

覚悟は決めていたが、右往左往の毎日。それまでしっかり者といわれた私が、言葉も地理も知らぬ異国に一人投げ飛ばされたかのように、泣き喚きもがいた。

想定外だったのは、これまで母に苦労をかけっぱなしだった父が「俺が面倒を見る。俺がみねばねぇべ」と言って退院後の在宅介護を買って出たことだった。

でも、限界はすぐにやってきた。

私の生活も一変した。

仕事終わりに車で40分の実家へ走り、晩御飯と翌日の朝食・昼食をつくり、デイサービスの準備と掃除・洗濯。甘いジュースのカラ瓶を手に、激怒しながら父のインシュリン注射を見守り、火事が心配なので二人が寝室にいくのを待つ、そして鍵をかけ、自分のアパートに帰る。

私の前に父が倒れた。

それから、またてんやわんやの時がすぎ、弟に経済的に助けてもらって父と母は施設にお世話になることになった。

同居していれば、私が仕事をやめていれば。自分の親なのに人様からなんて言われるか。私は変な敗北感に苛まれたが、今は介護のプロに頼って良かったと思っている。

介護に悩む人に私はよくこういう。

「介護は一握りの罪悪感で優しさをもたらしてくれる」と。

施設にお世話になる前は本当によく怒鳴っていた。

「なにやってんの」「食べないと死ぬぞ」「もうバカ」「しっかりして」

言ってはいけないワードのオンパレード。

しかし、敵も負けてはいない。体重が40キロを切った気の強い母に至っては、力弱い声で「意地悪!!くそ娘」と私を罵倒し、グーパンチをかましてくる。腹が立ってこっちも応戦。

ドライブ中、車を路肩に停めて、おばさんとばあさんの喧嘩が始まる。

知らない人が見たら、子猫同志の陳腐な喧嘩に見えたかもしれない。そして必ず自己嫌悪に陥るのは私だった。「病気だってわかっているのに、またやってしまった」

施設にお世話になるようになってからは、おのずとそんな感情は減っていった。

時はゆっくりと過ぎていった。施設で母の車椅子を押していた父は、やがて自分も車椅子生活になり、晩年胃瘻生活を送った。口から食べ物を取れなくなった父に、母はかわいそうだと思ったのか、よく隠れて自分の食事や飲み物を口に入れるものだから、職員さんが「ぎゃーーーー」と悲鳴をあげていたのが懐かしい。

そして父は、私に病院で人生を終えるということを学ばせてくれた。

その頃になると「趣味は中途半端な介護です」と言うようになった。

母には「車椅子に乗ったあんたといると、私がいい人に見えるからさ」と言いながら、プライベートの全てを母との時間に使った。それでもやっぱり在宅で介護をしていない罪悪感は消えることはなかったが、くそ娘が出現する回数は減った。

最後まで胃瘻はしないと頑固だった母の体重は、30キロをきってきた。

私は、最後にホームホスピスという道を選んだ。

そこは中古の一軒家をリフォームした看取りの施設。味噌汁の匂いで朝を感じ、リビングでご飯を食べ、人の笑い声に包まれながら、やりたいこと、食べたいものがあったら、できるだけ叶えてもらえた。

ある日「泊まりたかったら泊まってもいいんだよ。隣に布団敷いてあげるよ」と言われた。私はその日から母の隣に寝て、そこから「行ってきます」と仕事に行き、「ただいま」と帰ってきた。真夜中に何度も聞こえる優しいスタッフの声、その献身的な姿に手を合わせた。

そしてあの日の朝、私は母の好きなコーヒーを枕元に置いた。

「いい匂いでしょ」

小さくうなずく母に少し安心して

「私、今夜はアパートに戻りますね。何かあったらすぐにきますから」

と、台所で夕食を作っている施設の人にいった。

そして、スカースカーと体から振り絞るような寝息をたてる母の隣で単行本を開いた。

それは介護を題材にした本だった。47頁、48頁、4・・

太陽の光が薄いカーテンの隙間から私を叩いたようだった。

ふと、母を見ると、冷めたコーヒーの横で旅立っていた。母が人生最後に見たのは、くそ娘が本に夢中になっている姿だったのか?

「おいおい、痛いとか苦しいとか、なんか言ってから逝ってくれよ・・・」

申し訳ないのと、おかしいのと、私たちらしいなと思うのと、様々な感情がぐちゃぐちゃになって、ふっと笑ってしまった。

施設の人は「こんなに穏やかな旅立ちは初めてです」と母を称賛し、10年以上の付き合いになったケアマネさんは、私より泣いてくれた。

それまで紆余曲折を共有してきた主治医に、最後の救いの言葉を求めた。

「先生100点だったかな」

「100点満点だよ」と言い、死亡診断書に「老衰」と書いてくれた。その二文字が母を称える最後の勲章に見えた。

振り返れば父と母とのねちっこい時間は、例えようのない時間だった。

たくさんの人と出会い、たくさんの知識を得て、たくさんの敗北感を味わい、たくさんの笑いをもらい、綺麗事だけでは済まされない現実も知った。

人生足し引きしたら、私にはプラスだった。

あれから4年、やっと携帯電話の着信音で心臓が爆音を轟かせなくなった。

私は、仕事の傍、介護初任者研修を修了し当面使うあてのない資格を取った。

一握りの罪悪感だけはなかなか消えないものだ。

でも、なくてはならない罪悪感だったのだと思う。

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