優秀賞
第4回 看護・介護エピソードコンテスト『芳子さんが教えてくれたこと』 長谷 直樹さん

あるとき、横浜にある私たちのグループホームに、ご夫婦がそろって入居されることになりました。

そのご夫婦は、それまで住み慣れた名古屋で二人暮らしをされていましたが、ご夫婦ともに認知症になり、近頃では火にかけたまま放置されたフライパンから火が出たり、出かけたまま帰ってこられなくなることが続いたりと、ご夫婦だけで生活することが難しくなっていたようでした。

そして、横浜に住んでいるご家族が近くのグループホームを探していたところ、ちょうど空き部屋が2つあった私たちのグループホームを見つけ、ご夫婦そろっての入居が決まったのでした。

ただ、空き部屋は2つあったもののそれぞれユニットが違い、ご夫婦は1階と2階で分かれて入居されることになりました。私が所属する2階ユニットには奥さまである芳子さんが入居されました。初めてお会いした芳子さんは、とても礼儀正しく、上品な方という印象がありました。

入居の際には笑顔を見せていたご夫婦でしたが、実際グループホームへの入居についてどこまで理解、納得していたかはわかりません。ご主人の方はいくらか理解した上で入居されていたようでしたが、芳子さんは、ご主人と一緒に遊びに来ているという感覚が強かったように思えました。

入居から数日も経つと、芳子さんは、ご主人と別れる夕方から夜にかけて不安そうな様子が目立つようになりました。

特に就寝前になると、芳子さんは「主人はどこにいるの」「今すぐ会わせてほしい」「私ひとりが休むわけにはいかない」など、しきりにご主人がいないことに不安を訴えられました。

そうした際、職員は「ご主人は下の階にちゃんといますよ。ただ、もうお休みになっているので、また明日会いましょうね」と統一した声掛けを行うことになっていました。

しかし芳子さんは納得されません。

「どうして会えないの、いいから主人を呼んできて」「どうしてそんなに意地悪をするの」と、だんだん険しい表情や口調に変化していくのでした。

それに対し、時に職員は「ご主人はもう寝ています。寝ている人を起こすのは、かわいそうだと思います」と言って聞かせようとしたこともありました。

そうしたことが続くため、私たちはご家族と一緒に、ご夫婦の絆を尊重する対応を目指して話し合いを行いました。そして、日中はできるだけご夫婦で一緒にいる時間を作ること、ご家族にもこまめに面会をしていただき、安心して頂くこと、私たち職員も日ごろから芳子さんの不安な感情に寄り添い、否定しないことなどの対応が決まりました。また、入床時のような遅い時間でも、どうしてもという際には1階のご主人のところまでお連れしてはどうかという意見があり、ご主人にお話しすると、それで家内が安心するならばと了承して頂くことが出来ました。

それからは、ほぼ毎日のように、寝る前になるとご主人のもとへ会いに行くことが続きました。ご主人はすでに寝ていることもありましたが、快く迎えてくれました。やはり実際にお会いすると、芳子さんはすぐに安心した表情に変わるのでした。ご主人の顔を見たあとは、すっかり安心して、ぐっすりお休みになることもあれば、安心したと思い2階に戻ったそばから「主人はどこにいるの」と同じ不安を訴えられることもありました。それでも、とにかく本人の気持ちを大切にしながら、根気よく支援は続けられました。

そんなことを繰り返すうちに、いつしか芳子さんの不安の訴えも少なくなっていきました。

半年ほど経ったある夜のことでした。

私が夜勤に入っており、芳子さんの入床を見守っていると、芳子さんがふと「主人はどうしているかしら?」と言いました。ご主人の心配を耳にするのが久しぶりの気がして、私は内心ドキッとしました。しかし、芳子さんの表情は以前のような不安そうなものではありませんでした。

「ご主人は1階の部屋にいて、たぶんもうよく寝ていると思いますよ」と私が言うと、芳子さんは「そう」とだけ言いました。

ご夫婦の絆を尊重する。そうした支援の目標を思い出した私は「気になりますか?一緒に会いに行ってみましょうか?」と提案しました。それはもう気休めやごまかしではなく、また単なる症状に対する対処でもなく、本心からの言葉でした。

すると芳子さんは「いいわ」と微笑みました。そして、「本当ですか」と確認する私に、こう言ったのです。

「だって、寝ている人を起こしたら、かわいそうでしょう。」

私はその言葉に大変驚きました。同時に、心の底からうれしさがこみ上げてきました。深い感動が胸に広がっていくのがわかりました。「芳子さん!その心遣い、素晴らしいですね!」と思わず芳子さんの手を取っていました。そんな私に芳子さんは「どうして?そんなこと、当たり前でしょう」と笑ってくれたのでした。

この時の光景は、今でも鮮明に思い出されます。

「寝ている人を起こしたら、かわいそうだ」以前には、私たちが芳子さんに対して言っていた言葉です。しかし、そんなことは私たちが言うまでもなく、芳子さんは初めからちゃんと知っていたのです。そんな心遣いを当たり前にできる。これが、もともとの芳子さんの姿なのだと気が付きました。

思えば、よくわからないまま遠く離れた横浜までやってきて、突然夫婦離ればなれになり、まったく知らない人との共同生活が始まったのです。芳子さんはどれだけ混乱したか、不安だったか、こわかったか。想像にもおよびません。

「いいから主人を呼んできて」あのときの芳子さんは、心のより所であったご主人を探しながら、そうした不安やストレスと一生懸命戦っていたのだと思います。

ご家族も、ご夫婦での生活を守り、安心した生活のためにこまめに面会をしてくれました。私たち職員も、ご夫婦の絆に配慮した支援をみんなで話し合い、実践してきました。またご主人も、ご自分も大変な中、奥さまの不安を親身に受け止めてくれました。そうした周りの支えの中で、しかし一番頑張ったのは、やはり芳子さん本人なのだと思います。本人が一番悩んで、戦って、そしてついに打ち勝ってくれたのです。私たちは、そのサポートをしたに過ぎません。しかし、支える人たちのサポート次第では、認知症の方であっても自分の力でどんな困難も乗り越えていくことができる。そう感じた私は、介護という仕事が大変意義深いものに感じられました。

私はいま、この仕事に心から誇りを持って臨むことが出来ています。その意味、その魅力、その力は、あの時芳子さんが教えてくれたのです。

これからも、本人が自分の力を最大限発揮できるような支援を目指して、精一杯努力していきたいと思います。

芳子さん、ありがとう。

これからも、どうか見守っていて下さい。

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