優秀賞
第5回 看護・介護エピソードコンテスト『私らしく、私だからできること』 小松崎 有美さん

「介護って、キツイ・汚い・クサイだっけ?」
そう言うのはうちの夫だ。夫は私の仕事に理解がない。汗だくで帰れば「臭い」と言って私をよける。

だけど私は介護が好きだった。根っからの世話好きだが悪く言えばお節介。時にやりすぎてご利用者の家族から苦情をもらったりする。それでもお年寄りが好きだった。私の腕をなでるしわしわの手。私を笑わすくちゃくちゃの顔。どれも愛おしかった。私の担当フロアは認知症の方がほとんどだ。そのため、私はよく奥様や娘さんと間違えられた。それでもよかった。だって家族とはその人の大切な存在。だから私は嬉しかった。

私の職場では近年本格的に看取りケアを始めた。マザー・テレサの言葉に『人生の99%が不幸だとしても、 最期の1%が幸せならば、 その人の人生は幸せなものに変わる』というものがある。私の仕事はこの1%をプロデュースすることだった。私はこの言葉に胸を打たれた。でもまだ経験値が少ない。何度も委員会で話し合い、勉強会も開いた。その中で私は夢を膨らませた。私ならどんな最期がいいだろう。食べたいもの、行きたい場所、会いたい人。次から次へと出てくる。

私はいつだって考えていた。ご利用者とその家族にできる1%のおもてなしを。大好きなアイスクリームを3食食べたいとなれば、医師の診断のもと食べていただき、ハワイに行きたいと言う方にはハワイアンミュージックを流し、思い出のアロハシャツで最期を迎えていただいた。どの方もご家族に見守られ、天に召されるとき、その表情は本当に穏やかだった。

しかし私は思わぬ壁にぶつかった。それはひとりのご利用者だった。その終末期、食欲の低下で「何が食べたいか」より「何が食べられるか」という状態であった。もともと食べることが好きで、いつだって食べ物の話をしていた。さらにひとり息子がいて、彼の小さい頃の話は自慢だった。入所時から看取りを希望されており、ご家族と終末期について話を進めていた。本人の食べたいものを好きなだけ。当初そんなことを話していた。だが身体が弱く、しばしば入退院を繰り返していた。その身体は月日が経つにつれ元気もなくなっていた。もちろん食欲だってなくなっていた。「好きなものを好きなだけ」そんな言葉は手の届かない遠いところにあるようだった。

医師から看取り期と診断を受けたとき、私は絶望した。だって、本人の願いをひとつも叶えられていないから。しかし、反応もなくなり、もうすぐその時がくるのは私にもわかった。ご家族にその状況を話し、最期の意志のすり合わせをした。

それからご利用者は多床室から個室へ移ることになった。多床室と比べれば個室は広々としている。けれど生活音もなければ、人の気配もない。いつも扉を開けるたび、ひとり横たわる姿を見るとその広さはもっと広く感じられた。その広さにある深い孤独。できることならご家族にそばにいて欲しかった。さみしさを埋められるのはご家族だけだから。そんな思いで私はご家族に連絡をした。「できるだけ最期は家族の方に寄り添って欲しいのですが」と。すると思わぬ言葉が返ってきた。
「ちょっと今、忙しいので亡くなったら教えて下さい」
胸を突き刺すような痛みが走った。ご利用者の「食べたい」や「会いたい」が叶わない。そのもどかしさの中で私はもがいていた。だけど最期の時は刻一刻と迫ってくる。1時間置きの巡回。手を握る。足をさする。声をかける。そうやって温もりを伝え続けた。しかし反応はない。動きもない。上を向いて、瞼をしっかり閉じていた。するとどこか不安になってきて思わず口元に顔を近づけた。「ああ、よかった」呼吸があるのを感じてホッと肩をなでおろした。だけどモヤモヤとしたため息も出た。これでいいのだろうか。まだ何かできるんじゃないか。そんなもどかしさから、自宅に戻って看取りの研修ノートを開いた。私にできることは何なのだろう。

せめて家族の声だけでも伝えられないか。そこでまた施設に戻り、家族に電話をする。しかしその声は留守番電話だった。その事実が深く深く私を圧迫した。
来る日も来る日も巡回は続いた。思わず私は「お母さん」と声をかけた。
「お母さん、今日はいいお天気ですよ」
「お母さん、去年の桜餅、覚えてますか?」
「お母さん、聞こえてますか」
しかしそれを聞いた先輩は「私たちは家族ではない。ご利用者はお客様。ちゃんと距離感を保つこと」と私を注意した。私は頭が真っ白になった。それから三日後ご利用者は帰らぬ人となった。私は手を合わせながら考えた。私の行動は、そして言葉は正しかったのだろうか。浮かぶのは何もできなかった自分。だけどそれを慰めるような最期のやさしい表情。

その帰り道。電車には乗らず歩いて帰った。足は棒のようになり、頭はボーッとしていた。珍しく夫が「どうした?」と言ってきた。私は話した。私の不甲斐なさ。看取りの難しさ。だけど夫は言った。
「君がいて良かったんじゃない」
「こんなあたしでも?」
「君だから良かったんじゃない」
その時気づいた。最期のおもてなしは希望通りにいかない。机上で学んだことが必ずしも生かされるとは限らない。その人の終末期。何が正解で何を求められているかもわからない。だから悩むし、答えを求めて右往左往する自分がいる。だけどその人を思い、辿り着いた答えならばそれが誠意となるのではないか。最期のあの穏やかな表情がそれを学ばせてくれた。

夫の言葉は私に勇気をくれた。こんな私でも、いや、こんな私だからできることがあるはずだと思えた。だからこれからもその人の人生の帰り道に寄り添っていきたい。
いつも「くさい、くさい」言う夫ではあるが、この日は私が照れ臭かった。

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