選考委員特別賞
第4回 看護・介護エピソードコンテスト『最期の宇宙飛行』 林 侑太朗さん

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彼女を連れ出しての散歩は、私が思っていたものとはほど遠かった。
私にとってそれは、風流や優雅さとは無縁の代物であったのだ。
壊れ物を扱うように彼女の車いすを押し、戦々恐々として首から下げた酸素モニターを逐一確認する。患者さんを連れて散歩に出るとは、こういう事なのだと思い知った。まだ暑くもないのに、病院の敷地を半周するだけで汗をかいてしまっていた。
それでも目的地になんとかたどりつき、私もベンチに腰を下ろす。
駐車場の裏手に作られた、多少の花壇や樹木があるスペースである。

『外の空気が気持ち良いわぁ』

彼女はそう言って幸せそうに笑う。
だがそう笑う彼女を見て、私はなんだか申し訳なく感じる。彼女が吸っている空気は、しかしもう大部分が酸素ボンベの酸素なのではないのだろうか。そう思いながら、私は膝の上に置いた酸素モニターを見つめ続ける。
彼女はすでに慢性の呼吸不全。なので酸素は上げすぎても、下げすぎてもいけない。それに酸素ボンベの残量の事もある。血中酸素の値がゆらゆらと上下するたび、私は焦りそうになる。

『先生、もっと星が見たいわぁ。背中倒してくれないかしら』

やがて彼女は、そんなことを言い始める。彼女の車いすは、レバーを引けば背もたれを倒すことが出来るのだ。
しかし私は迷う。病棟でも睡眠中に何度も痰づまりを起こしかけている彼女を、こんなところで横にして良いのだろうか。

『お願いよぉ、先生』

そう乞われて私は、彼女の背もたれを倒す。
もし痰づまりを起こしたら、窒息したら、病棟ではなく救急外来に走ろう。そこで吸引をして補助換気をしよう。そう覚悟を決める。
そして七十度ほどに傾いた彼女は、静かに星を眺め始めた。

『星がたくさん見えるわぁ』

そんなことは無い、と私は思ってしまう。
ここは都心の病院で、ここは街中にある駐車場なのだ。
だが彼女にとって、この空は満天の星空なのだろう。
それを思うとき、私はどうにも悲しくなってしまった。

彼女を見る。

彼女は大きな車いすに埋もれ、酸素ボンベを背負い、大きな袋付きの酸素マスクで顔の大部分を覆われ、身動きさえも不自由に星を眺めていた。
私はその姿を見て、宇宙飛行士を思い出していた。
彼女の今の姿は、どこかで見た宇宙遊泳する写真に似ていたのだ。

だが無論、それを彼女に告げる気にはならなかった。
世界初の宇宙飛行士であるガガーリンは、きっとただ一人、宇宙で孤独であっただろう。だが彼のことは、きっと地上で何百人もの人々が見守っていたはずだ。
けれどここにいるのは彼女と、そして彼女のモニターを見守るのは新米の研修医が一人きり。地上で宇宙遊泳する彼女は、宇宙にいるガガーリンよりずっと孤独に思えた。

『残念、今夜は月が見えないのねぇ』

彼女に言われてみればその通りだった。
新月を超えたばかりで、月を見るには不向きの夜であった。
じゃあ今度は月が出てるときに散歩しましょう。
そう言いかけて、私は危うく思いとどまった。
満月になるまでなら約二週間。
でももう二週間後の月見の約束は出来ない。
代わりに私は、また散歩に行きましょうね、とだけ言った。

●       ●

外出が出来て良かった。

そう思えたのは、彼女を病室のベッドに送り届けた後であった。
そこまでして、ようやく安心してまともな感想が湧いてきたのだ。
外出中は本当に緊張の連続で、気が休まることが無かった。無事に帰ってこれてよかったと、病室に入った時に本気で安堵した。
そうして落ち着いた私は、ようやく彼女が喜んでくれたことを誇りに思えた。何もしてあげられなかった彼女に、やっと一つ何かしてあげることが出来たと思えたのだった。

その後、彼女の宇宙遊泳は都合三回行われた。
最後には、ようやく月を見せてあげることも出来た。
そして四回目の外出からしばらくして、彼女の肺機能はさらに悪化しやがて病室で息を引き取った。

『先生、先生、死ぬってどういう感じなのかしら』

亡くなる数日前、大量の酸素が投与されるマスクの中で彼女は必死に訊ねていた。
無論私には、答えることが出来なかった。

人は年老いて死期が迫れば、やがて覚悟も決まるものである。

そんなのは嘘であると教えてくれたのも、彼女だった。

●       ●

彼女の死から半年余りが過ぎた、元旦の事だった。
その後の半年の臨床研修の中でも、いくつかの死を間近で見た。
彼女の死が、そんないくつかの一つになり始めた頃だった。

大晦日当直がひと段落し、休憩室でテレビを見ている時であった。
ニュースに映っていたのは、宇宙ステーションから見る初日の出であった。
地球の影から顔を出す太陽を映し、宇宙飛行士が何かを言っていた。
だがそれを見た私は、愕然とした。
彼女に申し訳ないことをしてしまったと、ようやく気づいたからであった。
私がなんて愚かだったかを思い知った。
宇宙にすら、太陽は昇るのだ。

『そうねえ、外に出たいわねぇ』

彼女はそう言った。
しかし人生の最後の外出を思うとき、誰が夜空を思うだろうか。
きっと彼女だって、澄んだ青空を思い描いていたに違いない。

『朝からずっと一日中ねぇ、今か今かと先生を待ってたの』

だからきっと彼女は、今か今かと待っていたのだ
だが私が日中忙しそうにしているのを見て、遠慮していたのだろう。
遠慮をしてはいても、しかし一縷の望みをかけていたのではないだろうか。

しかし私が彼女を連れ出すのは、いつも夜になってからであった。
だが、それでも。

それでも彼女は外出のたびに、いつも喜んでくれていた。
ならばただの一度でいいから、彼女を日中に迎えに行けば良かった。
そうすれば、いったい彼女はどれほど喜んでくれたことだろうか。

だから私は、今でも彼女の事を思い出す。
応えられたつもりで、ごく小さな願いにすら応えられていなかったから。
その悔しさが、今でも残っている。

死期は残酷で、そしていつかは必ずやってくる。
そして死が迫った人間は、わずかな希望を叶えることすら難しくなってしまう。

その残酷な時の中にあって、小さな、しかしごく当たり前の希望を叶える手伝いをしたい。
彼女の事を思い出すたび、私はそう願うのである。

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