第10回 看護・介護エピソードコンテスト『気持ちを伝えるということ』
杉山 ひかりさん
杉山 ひかりさん
「りーちゃん、今日はすごく嬉しそうなの」
「りーちゃん、すごく辛そうなんだ」
私たちにりーちゃんの様子をひとつひとつ丁寧に教えてくれるママの目は、とても澄んでいて、いつもまっすぐだった。
私は大学病院の小児科外来でずっと働いていた。いろんな子が毎日たくさん来て、いろんなママたちと話し、子供たちの成長を一緒に笑ったり、ママたちの育児の葛藤や悩みを一緒に悩んだりの日々。私はそんな外来の仕事が大好きだった。
そんな仕事の日々の中、りーちゃんは新生児集中治療室から退院してやってきた。りーちゃんは、新生児仮死で生まれてきた。りーちゃんはぴくりとも動かない。笑わないし、泣きもしない。呼吸器が繋がり、聞こえるのは機械の音。表情はいつも穏やかな目をつぶった顔。ママはそれを優しく見つめる。
「これからよろしくお願いします」笑顔のママ。生まれてからここの外来に来るまでの長い長い時間、どれだけ悩み、たくさん泣いたのか。この笑顔でここに立つまでに、どれだけの想いをりーちゃんに向けたのか。
「よろしくお願いします!」私も心から伝えた。
ママはとてもキレイで、金髪の髪を長くなびかせ、まつ毛はとっても長い。「ギャル」という言葉が似合うような人だった。しかしそのものごしは看護師と言ってもいいほどで、ママはりーちゃんの様子をこと細かに考え、些細なことにも気づき、医師にどんなこともしっかり伝えていた。そしてなによりもりーちゃんの気持ちにとても敏感に寄り添っていた。
嬉しそう、楽しそう、痛そう、悲しそう、辛そう、私たち医療者は、ママの言葉を頼りにりーちゃんに適した医療、看護を探した。自分から発信することが難しいりーちゃんにとって、ママの気づきはとても大きかった。そんな中、りーちゃんは入退院を繰り返すようになった。そして、とうとう退院が難しくなった。私は時間を見つけては病棟に会いに行くようになった。
「りーちゃんはどう?」
「今日はさっきまで辛そうだったんだけど、今はすごく落ち着いてるの」
ママにしか分からないりーちゃんの気持ち。それは想像でもなく、なんとなく、でもなく、毎日一緒にいるママだからこそ分かるりーちゃんの「事実」だと思った。
長引く入院。ママはりーちゃんに出来る医療を積極的に全てやってあげたい。出来ることは全てに挑戦したい。誰かが入院し、退院していく姿を何度も何度も見送る日々。それでもママは前を見ていた。しかし、りーちゃんの状態は好転することはなく、病院でできることは少なくなっていった。
私は、1つの想いが日に日に強くなっていた。
「家に帰ってみてはどうだろうか」
しかし、これは、最前線の治療をストップする、という意味にもなる。
りーちゃんとママに会いに行くたびに、その言葉は喉元まできては出せずに飲み込んだ。他の人がもう話しているかもしれない、医師からも言われているかもしれない…でも、もし、もしも。もしもその選択肢をママが知らなかったとしたら?
元気になって帰ることを目標としているのに、もし元気にもなれず、最後にママが体温を感じられた場所が病院になってしまったら?りーちゃんが感じた世界が最後は病院だとしたら?
いろんな葛藤が頭の中を駆け巡った。外来がひと段落し、今日はりーちゃんのところに行けそうだと思ったある日、勇気を出してママに聞いてみた。
「ママ、りーちゃん、家に帰ることも出来るんだよ」
その後のことは細切れにしか覚えていない。とにかく、ママの気持ちを最優先に、でもなにも後悔しないように、と、一つ一つの言葉を絞り出した。
あまり細かくはママに追求はしなかった。家に帰れる選択肢を知っていたのか、誰かからきいていたのか。でもそんなことは関係なかった。
「そっかぁ。家かぁ…帰ることも出来るんだ」
ママはちょっと泣いて、最後はまた笑顔で私を見送ってくれた。
しばらくして、りーちゃんとママは家に帰って行った。退院の日、ママは外来に寄ってくれて、いつもの素敵な笑顔を見せてくれた。りーちゃんはたくさんの管が繋がっていたけど、いつもより嬉しそうに感じた。ママしか分からなかった感情が私にも少し、ほんの少し分かったような気持ちになった。退院と同時に訪問医に代わったので、外来に来ることはなくなり、医師からどんな様子かをたまに聞いたりしていた。私たち医療者が思うよりもはるかに長い時間を家で過ごしたりーちゃんは、ママたちに見守られながらお空の天使になった。
その後、私は大学病院を辞めて、今は障がい児福祉に携わる病院にいる。言葉を発しない子たちもたくさんいる中で、ママたちには本当にいつも頭が下がる。この子達の様子や気持ちを誰よりも分かっているのはやはり家族である。「家族の気持ちに寄り添った看護」文字にするのは簡単だが、それを表現するのは思っている以上に難しい。私たちは家族からたくさんのことを受け取り、それをケアにつなげていく仕事だ。
辛そうだから、こうしてほしい
嬉しそうだから、こうしてほしい
その子に言葉はなくても、家族の言葉はその子の言葉。
そして、私たち医療者の言葉もその子への言葉。家族に伝えること、話したいこと、怖がらずに向き合って、本当に必要だと感じたときには伝える勇気も必要なのかもしれない。その言葉は必ず受け取ってもらえるわけでもなく、時に相手を想って伝えた言葉でも、伝わらないことだってある。想いが伝わったか最後までよく分からないことだってたくさんある。
りーちゃんのママにあの日伝えた言葉は、どこまでママに伝わったかは分からない。それでもママが笑顔で退院したあの日を私は忘れない。