第8回 看護・介護エピソードコンテスト『トイレが世界を変える!?』 田中 良樹さん
自分だけの世界で生きているという表現が正しいのか分からないが、彼女は急に歌ったり、泣いたり、笑ったり、怒ったりする。私の会話には耳を傾けず、想像もしないような行動をする。私はどのように接したらいいのか分からないまま、ある意味自由に、ある意味放任した状況を続けていた。
彼女は全く意思疎通が図れないという訳ではない。
「おはよう。」や「こんにちは。」といった簡単な言葉に対して、時々、反射的に同じ言葉を返すことがあった。その時は必ず、一瞬恥ずかしそうに私を見つめ、その後は何事もなかったかのように大きな声で歌いながら立ち去って行った。
彼女は若くしてアルツハイマー型認知症を発症した。運送会社のトラックの運転手をしながら2人の子どもを立派に育て上げた。60歳を過ぎた時に、夫を病気で亡くした。「今から思えば、父の死が認知症を発症するきっかけになったと思う。」と長男は語った。
夫の死後、彼女は一人暮らしをしていたが、しばらくして近所を歩き回るようになる。当初、近所の人は健康のために散歩をしているぐらいの認識であった。
日に日に歩き回る行動範囲が広くなる。雨の日は傘をささず、真夏の暑さも関係なく歩き回り、自分で自宅に帰ることが出来ずに警察に保護されることが増えてきた。また、国道のセンターラインを歩いたり、険しい山道を歩いたり、命に直結するリスクが伴うようになった。
長男は仕事を辞めて、彼女の世話に専念することになった。しかし、昼夜関係なく自宅から外へ出て行ってしまう状況は、すぐに世話をするのが限界になった。また、彼女が自宅から出られないように、自宅の周りをトタンで囲って柵を作り、鍵のついた部屋で閉じ込められる生活が数年続いた。
経済的な理由から長男は働くことになった。月曜から土曜までの昼間は私が働くデイサービスを利用し、それ以外は自宅で過ごすことになった。
デイサービスでは、施設内で過ごすことが出来なかった。人が集まる空間が苦手だったのだ。毎朝、デイサービスへ来ても、すぐに施設を飛び出し、近所を歩き回る。私は彼女と一緒に歩くことが日課になった。
昼食も施設で食べることが出来なかった。施設の軒下に机を運んで一緒に食べたり、近所の公園に食事を運んで食べたり、施設の食堂という固定観念を外して、彼女が食べることに集中できる空間を毎日作った。施設内で過ごせないながらも、何とかデイサービスを利用できていた。しかし、解決できない問題が一つあった。
それは、トイレの問題であった。
彼女は朝9時にデイサービスへ来てから夕方5時に自宅へ帰るまで一度もトイレに行かないのである。お腹を摩ったり、ズボンを触ってソワソワしたり、明らかにトイレに行きたい感じが伝わってくる。しかし、トイレへ案内するも排泄することはなく、すぐにトイレから出てくる。排泄を手伝おうと、「トイレですよ。」「おしっこしましょうね。」などと声をかけながら、ズボンを下ろそうとしても、すぐにズボンを上げられる。また、どうしても我慢できない場合は、自ら施設の外へ出て物陰に隠れた場所で排泄されることもあった。
また、デイサービスが終わり、夕方、自宅へ送るとすぐにトイレへ自ら行かれる。それが毎日の日課になっていた。
なぜ、彼女は我慢しているのにデイサービスのトイレを使用しないのか?
悩んだ末に、施設は全て洋式トイレで自宅は和式であることから、洋式をトイレだと理解できないのではないかという仮説を立てた。
施設は全て洋式トイレで和式はないことから、歩いて5分の所にある小学校のトイレを借りることになった。
期待と不安が入り混じりながらトイレへ行った。彼女は最初、落ち着かない様子で何度かトイレに入ったり出たりを繰り返した後に排泄をされた。仮説が確信に変わった瞬間であった。以降も学校のトイレへ行くと必ず排泄をされた。
実は話はこれで終わりではない。
毎日、彼女が学校へ行くことで子ども達が彼女に興味を持ったのだ。最初は興味本位で遠くから彼女を見ていたが、少しずつ距離が近づき、1週間も経つと挨拶するようになった。
それから子ども達が一方的に彼女に話しかけるようになった。彼女は嬉しそうに大きな声で笑ったり歌ったりして子ども達に応えた。
しばらくすると学校で認知症という病気を学ぶきっかけとなり、子ども達との交流が始まった。子ども達は年間を通して認知症の理解を深めながら施設へ訪問を続け、私たちは学校の学習発表会や運動会などに遊びに行き、お互いに親睦を深めている。
彼女には世界がどのように映っているかは分からない。しかし、彼女と繋がっている人達から見る彼女の世界は「認知症」というフィルターに覆われている。事実だけを見て、真実を歪曲した「自分だけの世界で生きている」と決めつけた彼女を見ている。私もその一人だろう。
彼女の真実を追うことで、彼女が生きる世界を知ることができる。また、彼女の生き方は大きく変わるはずだ。そのきっかけを作り出す努力が私にはもっと必要なのだ。
それから8年経ち、今も学校との交流は続いている。
現在の彼女は認知症の進行によって歩けなくなり、特別養護老人ホームで暮らしている。
私は何も変わらずに介護の仕事を続けている。ただ、8年前、彼女に話しかけた一人の子どもと一緒に真実を追いながら仕事をしている。彼女がきっかけを作り出してくれたご縁に感謝している。